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Je pense, donc je suis.

Je pense, donc je suis.(我思う、故に我あり。)  というか、ただの日記です。

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舞台「君と見る千の夢」

毎回、レビューを書くまえにお断りしておりますが、私は、もともと舞台演劇というジャンルが好きではありません。言葉で人に聞かせるように感情を表現するという行為を見るのが苦手なのです。(だから言葉を使わずに感情を表現するバレエが好き。) なので、演劇自体もそれほど数は見ておりませんし、舞台演劇に関する専門的な知識もないド素人です。そんな人間が、鑑賞時の記憶を元に書いた一つの感想にすぎないということを御理解の上、割り切って読みすすめていただければと思います。(※かなり長いです。)尚、文章および画像に関して無断転記、無断リンクはくれぐれも御遠慮願います。

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舞台「君と見る千の夢」

会場:東京グローブ座
演出:宮田慶子
脚本:金子ありさ
音楽:稲本響 
出演:相葉雅紀、上原美佐、越村友一、大沼遼平、保 可南、藤田朋子、相島一之、田山涼成、野口俊丞
公演日時 2010/5/2[日]~24[月]



舞台装置等はアールデコ風のシンプルな装置で、とても洗練されており、非常に合理的でわかりやすい作り。ステキな舞台装置でした。ステージは下記の図のとおり、客席の前列(A列~C列)をつぶして客席部分にせりだしており、セットは高さが3段階、奥行きも3段階に分かれており、せり出し部分及び1階が「現世」、舞台下手に用意されている2階部分が「生と死の狭間(以後、「幽体離脱スポット」と呼びます)」、そして、その後方に設けられている3階部分が「あの世(=死者の世界)、及び限りなく死に近い場所(以後、「ファイナルステージ」と呼びます)」として使われていました。そして、それぞれは階段でつながっています。

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生きている人々が繰り広げる(※回想シーンを含む)シーンは、1階部分「現世」のステージで演じられ、交通事故後で幽体離脱中の(=生と死の狭間にいる)春也(相葉さんが演じている青年)は、たいてい、「幽体離脱スポット」にいることが多く、春也の心の中の声を表現する1人芝居的なものは、ほとんどがこの「幽体離脱スポット」で繰り広げられていました。そして三途の川での死者との対話のシーン(クライマックス)は、ファイナルステージで行われます。途中、人間の世界に死んだ人間の霊魂が現れたりするのですが、その場合、たとえば、冒頭で春也が運び込まれた病室に恋人みっちゃん(上原さんが演じている春也の恋人)が駆け込んで来る場面などでは、客席には、まだみっちゃんが死んでしまっていることは知らされてはいないけれど、ファイナルステージの照明がボーっと光って、みっちゃんが幽霊であることをさりげなく伝える伏線的な演出が施されていました。あと、現世にまぎれこんで登場する幽霊のみっちゃんの衣装は、いつも全身白で、白装束がみっちゃんが既に死んでいることを告げる伏線にもなっていたようです。

どの階層のステージでも春也の見せ場シーンが用意されているので、1階席の客席も、2階、3階席の客席も、相葉ウォッチングという点では、どの席でも楽しめる作りになっているように思いますが、私と友人たちの総合的な意見では、物語の世界に入り込みやすいのは、そして俳優相葉雅紀の成長を目の当たりにするには、今回の舞台は1階にせよ、2階にせよ、3階にせよ、下手側の座席が当たり席だとおもいます。というのも主人公である相葉さんが、春也を演じる上で肝になるシーン、春也が感情を吐露する場面(父親との口論、美智子との最期の別れを納得するまでのシーン、寸止めキスシーン etc.)は、すべて下手側を向いて語るので、下手側の座席からだと相葉さんの表情から感情がしっかりと見えるので、物語の世界に身を投じやすく、胸に迫るものも大きいように感じたので。上手側だと、これらのシーンは相葉さんの背中越しにセリフから感じるしかないのですが、ただ、今回、相葉さんは背中でも気持ちを伝えられるような立派な俳優さんに成長しておられる(今回、相葉さんが客席に背を向けた状態で、背中で演じている様子を見れるシーンがけっこう多い)ので、上手側の席でもその背中から放つオーラで春也の心情は読み取れましたが、やはり下手側から見るほうが胸に迫るものは大きいと感じました。

音楽は、ピアノ音源。クラッシック音楽が使われていたのは1曲だけ、「Rachmaninov:Prelude In B Flat,op.23-2(ラフマニノフの10の前奏曲 作品23 第2番 変ロ長調)」。あと、劇中のセリフの中に「モーツァルトの23番」という単語がでてきておりました。これはピアノ協奏曲23番のことだと思われます。クラッシック曲のピアノ演奏は吉田まどかさんという方で、それ以外は、稲本響さんの作のオリジナル曲を稲本さんご自身が演奏された音源を使ってありました。劇中に使われていた稲本さんの音楽は、その場面場面にぴったりで、本当に素晴しかったです。グローブ座の天井から降り注ぐようなピアノの音色は、春也君の心情だったり、春也君の憧れだったり、衝撃だったり、同じ旋律でも演奏の仕方や伝わり方は場面場面で異なっており、音色の切なさだけでうっかり涙が込み上げてくることがしばしばありました。

さて、作品の内容についての感想ですが、正直、かなり書きづらい・・・。というのも、私の中で全く正反対の2つの感情が渦巻いているので。(苦笑) まず、相葉ファンというヲタクフィルターをはずして、一つの演劇作品として冷静に客観的にみるならば、もともと舞台演劇自体が嫌いで、ラブストーリが嫌いで、物事の整合性にこだわる私のような人間には、半ば拷問に近いような作品でした。(苦笑) ただ相葉ファンという立場で見れば、さすが相葉さんのために宛書された脚本なだけあって、クルクル変わる相葉さんの表情や仕草を堪能し、演技面での成長をも実感しやすい作りにしてある至れりつくせりな作品で、ファンという立場で言うならその点に関しては非常に有難いと思える作品でもあり、なんとも複雑な心境です。(苦笑)

作品自体は非常にわかりやすい作りです。登場人物も最小限に絞られているし、そのとき、そのときの登場人物の心情や状況については、なんでも全部丁寧にセリフで説明してあるし、『死を知って生を知る』という作品自体を貫くテーマも、美智子が働く老人ホームの院長先生の言葉を引用する形でセリフの中でも丁寧に説明してくれているし、物語の中でも、春也が身近な人の『死』を経験して、『生』の大切さに気づき、亡き人の分まで自分の人生を大切に前向きに生きることを誓う様子は、非常にわかり易く描いてあります。ただ、そのベタなテーマをわかりやすく展開していくがゆえに、全体として「浅い」、「押し付けがましい」という印象を受けました。 自分自身が相葉さんのファンであるというヲタクフィルターをはずして、一つの演劇作品として好きか嫌いかと聞かれたら、初日を見た段階では「嫌い」と即答してしまいそうなぐらいに、本当に私にとっては、全く面白みも感じなければ、好みでもないストーリーで、その作品自体のテーマの描き方の「浅さ」と「押し付けがましさ」にうんざりてしまったので、初日には大好きな相葉さんが主演しているにもかかわらず、途中からはあまりにも退屈で思わず何度も時計を見てしまったというぐらい、私とは相性が悪い作品でした。(苦笑) 私の場合、この作品が相葉さん主演でなかったら、見終わった後、すぐに忘れてしまうぐらいに印象が残らない作品だったように思います。それぐらい、私の琴線に全く触れない、私に言わせれば、「陳腐」で「浅い」ストーリーでした。ただ、誤解なきように強く言いたいのは、主演の相葉さんを含むキャストの方々のパ゚フォーマンスや、音楽や舞台美術を含む作品全体を「陳腐」だとか「浅い」と否定しているわけではありません。あくまでストーリーに限っての個人的な感想です。

たぶん今回の作品(とりわけストーリー)は、まだ「死」というものが身近ではない世代のお若い方や、重箱の隅を突かない性格の方や、心がピュアな方、そしてクラッシック音楽にあまり思い入れのない方には受けるのだと思います。私はそれらのどれも満たしてないので、鑑賞中に雑念が入りすぎて、完全に集中力を欠いてしまったような気がします。(苦笑) パンフレットに記載されていた脚本家(←アラフォー世代)のコメントを見ても「若い方々が何か感じていただけたら」とあえて「若い方々」限定のように書いてあったので、ターゲットは若年層だったのでしょう。若年層からはみ出たような私には、残念ながら、これといってストーリーから大きく感じるものはなく、残念ながら先述した「陳腐」と「浅い」という単語しか思い浮かびませんでした。
 
前回の「グリーンフィンガーズ」のときにも同じことを不満に思ったのですが、今回の作品も例に漏れず、主演である相葉さんのこういう表情やああいう表情を見せたいという目的が優先されて作られているがゆえに (まあ、それが「あてがき」の脚本の醍醐味であり、「ジャニーズ舞台」の基本だということは重々承知してはいるのですが)、相葉さんの見せ場をつくるためにストーリーがどんどん陳腐になっているように思えてならず、私にとっては、大好きな相葉さんへの「あて書き」であるという有難味よりも、「あて書き」ゆえの「所詮ジャニーズ舞台」的な安っぽさや「陳腐さ」が鼻について、最終的には、この物語を悲しいラブストーリーとして描くこと自体すらも疑問に感じたほどだったので、純粋な演劇鑑賞という点では、作品単体としては全く心が満たされませんでした。 今回の「相葉雅紀×宮田慶子」舞台に限ったことではないけれど(それこそ「大野智×きだつよし」作品にも共通して言えることですが)、作品自体が嵐ファンや相葉ファンに媚びすぎていて、「こういう相葉を見せておけば、客(ファン)は満足するだろう」みたいな匂いを感じてしまい、有難味を感じる前に、その脚本なり、演出意図なり、セリフなりにあざとさを感じてしまうというか、安っぽさを感じてしまうというか、ウンザリしてしまうというか、それが相葉さんの魅力を発揮させるために加えられたものだとしても、その数シーンのせいで作品全体がどんどん陳腐になっているようでは、ヲタクとして目の保養をさせていただくには満足できても、素直な演劇鑑賞というレベルでは満足できないというジレンマ。(苦笑) 

今回の作品の中で、相葉さん演じる春也は、「近親者(恋人である“みっちゃん”)の死」を経験し、亡き恋人の言葉に背中を押され、亡き恋人を安心させるためにも、いままで頑なに封印してきたピアノと向き合うことを誓います。つまり「近親者(恋人)の死」を「現実に向き合うためのプラスの力」としてポジティブなものとして描いているわけですが、でも「近親者の死」となると、この物語の中で春也は1年前に「近親者(母)の死」を経験したばかり。そしてその「近親者(母)の死」を経験し、その「近親者(母)の死」「亡き母の思い」を背負って真剣に現実(=ピアノ)に向き合っていても、現実の壁(=実力や才能の限界に直面したときの恐怖や己の自尊心)は乗り越えられず、そんな自分に自己嫌悪を感じ、「近親者(母)の死」に罪悪感を感じ、深い心の傷を負ってピアノを封印しちゃったわけでしょう? 「近親者(母)の死」を「現実に向き合うためのプラスの力」にしようとがんばっても、結果的には、そうできなかった自分に強い罪悪感を感じちゃった春也が、まだ春也の現実(=ピアノ)に対する考え方が何も変わっていない段階で、また「近親者(恋人である“みっちゃん”)の死」「亡き恋人の思い」を背負って何か(ピアノやリハビリ)をがんばろうと決意したところで、またそれをもってしても乗り越えられないような現実にぶつかってしまったら(実際、そういう現実は山ほどあるだろうし)、さらに深い心の傷をおってしまうのではないのかしら? 「近親者(恋人)の死」を「現実に向き合うためのプラスの力」として描くのであれば、既に経験している1年前の「近親者(母)の死」のお涙頂戴系エピソードが完全に蛇足な気がするし、二度目の「近親者(恋人)の死」を「現実に向き合うためのプラスの力」として描くには、その間に、ひとつ春也の精神的な成長なり心の変化が見えるエピソードを描いてくれないことには、根本的に春也の本質や内面や考え方は何も変わっていないようにしか感じられず、結局のところこの物語で解決したのは父と息子の関係のみにしか思えず、春也のピアノに対する葛藤の解決の部分に関しては消化不良感が否めませんでした。

私としては、やはり春也がピアノと向かい合うという結論を下すのであれば、そのきっかけは「近親者(恋人)の死」でなく、別の理由、自分が心の底ではピアノを求めていること、音楽を愛していることを否定できないとはっきりと自覚するエピソードなり描写が欲しかったです。 どうせなら運転していたのは春也で、助手席のみっちゃんは奇跡的に無事だったという設定にしておいて、三途の川で春也に夢と向かい合うことをすすめる(春也のピアノに対するトラウマを開放してあげる役目、『死から生を知る』ためのキーパーソン)は、恋人みっちゃんではなく亡きお母さんの霊魂だったらよかった(=春也が向き合う「死」は1つだけ、母の死のみでよかった)のに・・・なんて思ったりするのですが、でも、そうすると「生きてると思って見ていたみっちゃんが実は死んでいたんだ!」っていうクライマックスのどんでん返し的な衝撃や「ラブストーリー」としては弱いからダメなんでしょうね。私の感性においては「近親者の死」を「生きるプラスの力」として単純に定義づけてしまうことは、やはり浅くて陳腐にしか思えないので、母の霊魂に促されるというのも陳腐といえば陳腐だし。(苦笑)やはり春也は、死者の霊魂に促されたりする受動的解決ではなく、自分で答えをみつける能動的解決をしてくれなくちゃ、この先の春也が多いに心配でスッキリしなかったです。(苦笑) 結局のところ、作品を通じての製作側の一番の目的は、「死をもって生を知る」というテーマや春也の葛藤と克服の経緯をキッチリと伝えることではなく、「悲恋物を涙ながらに演じる相葉雅紀の頑張りを伝える」ことなんだなと痛感させられた舞台でした。そしてそういう目的においては、今回の作品は、大成功していると思います。

あと、初日の感想にも書いたけれど、クラッシック音楽の常識で考えるとチグハグで落ち着かない設定や台詞も、どうも今回の作品を好きになれなかった要素の一つ。パンフレットを見ると、劇中に登場する医学用語や医療現場のシーンは医療監修として成田赤十字病院の院長さんが指導なさったようですが、音楽用語にも監修係をちゃんとつけてほしかったと強く感じました。 ひとつひとつを見ると、あえて超メジャーどころをハズしたツウ好みっぽい単語を並べ立ててあるのですが、それらが横一列に並ぶとチグハグすぎて、そこで一気に物語の世界から現実に引き戻されちゃって、鑑賞中に雑念が入りまくってしまい、私は物語の世界に入り込めませんでした。 こんな風に重箱の隅をつつくのは、所詮演劇に馴染みのない人間による無粋な鑑賞の仕方なのだろうとは思うものの、本当にツメが甘いというか中途半端さが漂うというか、「どうせ、適当なことを書いたってわかるまい」と手を抜かれたような感じがするのが音楽ファンとしては本当に残念。まあ、このあたりの音楽に関する設定は完全にフィクションだと割り切って見ればいいのでしょうが、せっかく春也が熱く「夢を語る」見せ場のシーンなのに、こんなにチグハグなキーワードが羅列されてしまうと、フィクションと割り切るまでに時間がかかって、初日の段階では全く内容に集中できませんでした。いっそのこと、すべてを完全に架空の名称にしておいてくれれば、へんな邪念も入らず物語に集中できたのに、架空の名称の中に中途半端に生々しい単語を並べてくるから、その違和感が払拭しきれず恨めしく思いました。

以下、かなりマニアックに重箱の隅をつつきますが、普通「シカゴ(←オーケストラ名)のピアノを聞きに行きましょう!」なんて言わないでしょ? 普段オーケストラにないピアノという楽器がオーケストラに加わるとなると協奏曲、じゃあソリストは誰なんだ?(誰がピアノを弾くのか)ってのが重要なポイントだし、普通はそっちの名前がメインで、オケや指揮者はその次で 「○○(←人名)の弾くピアノを聞きに行きましょう!」って言うよね? 「シカゴ交響楽団!春也の好きなムーティという人の指揮!シカゴのピアノを聞きに行きましょう!」なんて言われたら、「だから指揮がムーティでオケがシカゴなのはわかったから、その肝心のピアノは誰が弾くの?」ってツッコミをいれたくなるってなもんです。ちなみに劇中のセリフでは、春也はシカゴのムーティのあとに「とくにピアニストのメラニ・サワー!(←架空のピアニスト?)あの人のモーツァルトの23番が!」と言っていたので、そこはその「春也の聞きたがっていたメラニー・サワーのピアノを聞きに行きましょう!」とか「春也の聞きたがっていたモーツァルトを聞きに行きましょう!」としておくのが普通かと・・・。このあたりの言葉足らずなセリフも、春也が憧れる指揮者をムーティではなく、クラッシック音楽ファンだったら誰しもが「シカゴ」「ピアニスト」「指揮者」「素晴しい」という単語から素直に連想するであろうバレンボイム(指揮者としてもピアニストとしても超一流)にしておけば、バレンボイムがシカゴ響で協奏曲の弾き振り(=ピアノを弾きながら指揮もすること)でもするのかしらと、ソリストの名前や詳細を省いたところで、ある程度ごまかせてリアリティも加えられるのに、あえて春也の好きな指揮者をムーティ、好きなオケをシカゴ交響楽団なんかに設定しちゃったもんだから、セリフの言葉足らずなところをツッコミたくなってしまう。ムーティはピアノ出身の指揮者ではあるけれど、とくにピアニストとして世界的に名声を博した人ではないし(録音があるらしいけれどそんなの一般的には全く知られていないし)、素直にピアニストとしても指揮者としても超一流でシカゴでも音楽監督として実績を残している「シカゴのバレンボイム」にしておいてくれれば(そして、できることなら「モーツァルト」を「ベートーベン」にしておいてくれたら)、指揮にもピアノにも両方に通用するし、本当にリアリティ満点で、その前後も含めて全部のツジツマがあって本当にスッキリするのに、もったいない。 

そもそも、どうして春也の憧れのオーケストラをあえて「シカゴ交響楽団」にしちゃったんだろう? だって、私に言わせれば春也のキャラって、アメリカのオケ、とりわけシカゴ響のイメージと正反対なんだもん。(苦笑) まあ世の中には本人のイメージと全く異なるものを好きな人もいて当然だし、実際にそういう人もいるだろうけれど、春也に「テクニックばかりを追求するようなコンクール受けする演奏に嫌気が差した」というような内容のセリフを、わざわざ『ヴィルトゥオーゾ(=演奏の格別な技巧や能力によって完成の域に達した、超一流の演奏家を意味する言葉)』という音楽用語まで使って語らせておいて、それで憧れているオケが、よりにもよってアメリカ(←どちらかというと欧州に比べるとヴィルトゥオーゾ養成国のイメージ)のオーケストラ、しかもシカゴ響(←数ある名門オケの中でも、とりわけヴィルトゥオーゾ勢揃いのスーパーオーケストラ)というのは、あまりにも春也のセリフと矛盾していて違和感を拭えなかったんだけれど、これは、春也君のテクニックへのコンプレックスだとか、素直になれない気持ちを際立たせるために、あえて真逆の「シカゴ交響楽団」というチョイスをしたのかしら? 欧州(ポーランド)にピアノ留学までしていた春也のキャラなら、やっぱり欧州オケ、欧州オケの中でも旧東欧圏の名門オケ(チェコ・フィルとか、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスとか、ドレスデンのシュターツ・カペレあたり)に憧れるのとかが似合いそうなのに、欧州のオケではなく、あえてアメリカのオケ(シカゴ響)に憧れているという設定にしたのは、セリフで『世界三大オーケストラ』という単語を使いたかったのだけれど、ベルリンフィル、ウィーンフィルだとベタだから、ツウっぽくシカゴにしてみましたみたいな安直なチョイスに思えて、ここでも気持ちが萎えました。 『世界三大オーケストラ』にこだわるのなら、むしろベタにウィーンフィルやベルリンフィルとか言ってくれたほうが、まだ欧州(ポーランド)にピアノ留学までしていた春也の背景的にも春也のキャラクター的にもしっくりくるのに・・・。

そこをあえてシカゴ響にこだわるなら、春也君の留学先をオケと同じアメリカ、それこそニューヨークのジュリアード音楽院あたりにしておいてくれれば、まだリアリティが生まれるのに、そこはなぜかマニアックにポーランド(タデウシ音楽大学というのは架空の名称?)だし、春也君のピアノ留学先をポーランドにしたのなら、劇中流れる曲や、憧れのピアニストが得意な曲は、ラフマニノフやモーツァルトじゃなくてショパンにしておいてくれれば統一性もあってスッキリするし、春也のキャラやビジュアルにはショパンがとっても似合いそうなのに、そこはあえてのラフマニノフだし、そして極めつけが「シカゴ交響楽団の芸術監督のムーティ」。(初日は「指揮者のムーティ」でしたが、千秋楽では「芸術監督のムーティの指揮」にセリフが変わっておりました。) ムーティは素晴しい指揮者だけれど、ムーティがシカゴ響の芸術監督に就任するのは2010年9月からで、現段階ではまだシカゴでは実績も録音も残していないわけだし、こういう生々しい名称をここで使われると春也は一体どこでムーティの指揮するシカゴ交響楽団の演奏を聞いたんだ?ってツッコミを入れたくなってしまう。 アメリカなら、せめてフィラデルフィア、欧州ならそれこそ『世界三大オーケストラ』のウィーンフィルあたりにしておいてくれれば、どちらもムーティ指揮の録音(=CD)も客演もたくさんあるし、フィラデルフィアにおいては芸術監督としての実績もあるので、春也が「ムーティが好き」「○○(オーケストラ名)が好き」という両方の言葉や組み合わせにもリアリティが生まれるし、音質的にも春也のキャラは、シカゴ交響楽団(大音量で元気一杯に鳴り響くダイナミックな金管)より、フィラデルフィア管弦楽団(柔らかくとろけるように弦をサポートする金管)や、ウィーンフィル(滑らかで豊かな金管)のほうが似合うと思うんだけどなー。なんだか「シカゴ」と「ムーティ」をセットで使っているセリフを耳にした瞬間に「インターネットで軽く調べて書きました。」っていう手を抜かれた感じがしちゃって、気持ちが一気に萎えてしまいました。ちなみに春也君が大好きだという指揮者のムーティは、以前、私が書いた「嵐を指揮者に例えると」のブログ記事の中で松本潤君っぽい演奏だと表現した指揮者です。

と、上記の不満点をクラッシックに詳しい友達や母(←舞台を見てもいない)に愚痴っていたら、「相葉君が『バレンボイム』とか『ライプツィヒ・ゲヴァントハウス』とか長い名前が覚えられなかったんじゃない?『ムーティ』とか『シカゴ』とか、覚えやすいし言い易そうだもん。相葉君用に単語を簡単なものに換えちゃったんじゃない?あて書きの脚本なだけに。(笑)」と言われてしまいました。ひどい・・・・。(涙) やれば出来る子なのに・・・。(涙) 今回もちゃんと頑張って『ヴィルトゥオーゾ』とか『アタック!』『アーティキュレーション』『ブレス』『スリット・ピアノ』『モルト・レガート』とか言ってたんだよ!初日は、かなり『う゛ぃるとぅおーぞ』『あーてぃきゅれーしょん』『もるとれがーと』と相葉クオリティがほのかに香る平仮名気味の発音ではあったけれど(苦笑)、千秋楽はそれすらもスラスラと感情をのせて言えるようになっていたのに・・・。

あ、でも、ここまで書き連ねてふと思ったこと。春也君の憧れであるシカゴ響は、春也が恋した「みっちゃん」のイメージなのかな? カンペキで、隙がなくて、華やかで、自分にないもの(=テクニック、夢みる心、想像力)を全部もっていて、憧れるけれど、ときどき見ていてしんどいっていうのは、私がシカゴ響やムーティの演奏に持っているイメージと重なるといえば重なる。でも、きっとそこまで深く考えては書いてないような・・・。母に言うと「シカゴ響は、『相葉君』本人のイメージから引っ張りだしてきたんじゃないの?相葉君のパブリックイメージにはピッタリよ。あの元気はつらつなパワフルなシカゴの音って」ですって。(苦笑)

というわけで、 初日の段階では、上記に書き連ねたような重箱の隅をつつくような雑念がグルグルと頭の中を渦巻いてしまうという無粋な舞台鑑賞しかできずで、全くストーリーにも舞台の中の登場人物にも入り込めずだったのですが、幸いにして再度鑑賞する機会を与えられ、その際に初見で感じた全ての不満を「所詮ジャニーズ舞台だから」「これはフィクションだから」と完全に割り切って、演劇鑑賞というスタンスよりも、どちらかというと相葉ウォッチングに集中して鑑賞してみたら、雑念に邪魔されることもなく普通に楽しめました。所詮、私は一生懸命頑張っている相葉さんを眺めているだけで幸せになれる安い“あいばか”なんだよね。(苦笑)

そして初日のブログ記事に「泣かされて帰って来た」と書いたことからもわかるとおり、脚本に関しては上記に書き連ねたようないろんな不満があるにせよ、相葉さんを含む演者さんたちの真摯な演技は、どれもこれも胸を打つものがあり、それぞれの境遇のせつなさや苦しみは、その方々の演技からそれぞれに「痛み」や「悲しみ」「優しさ」「思いやり」として伝わってくるものがあったので、ストーリーの根っこの部分や軸になるメッセージには納得していなくても、気がつけば登場人物に共感して涙しておりました。とりわけ、父と春也の口論のシーンでは、双方の思いの切なさ、やるせなさが田山さんと相葉さんの熱演から伝わってきて胸を打って泣かされました。

相葉さんは、さすが自身に宛書された脚本なだけあって、等身大のキャラクターである春也君を堂々と演じきっておりました。友人各位からの報告とを照らし合わせてみても、相変わらず、日や回によって仕上がりの差が極端に出るあたり(異常なまでにセンシティブすぎる時もあれば、感情を抑え気味に表現する時もあったり、)、まさに「舞台は生モノ」であることを伝えるかのように演技が毎回しっかりとは安定しないという相葉クオリティは残ってはいるものの(苦笑)、以前、それこそあの頃に比べると格段に上手になって安定度は増していたし、表現の引き出しが増えていたし、背中や後姿だけでも、その時その時の春也の感情が見えるようになっていました。とりわけ相手がいる会話形式の場面は、どの感情表現も違和感なく演技が自然になっていて、前回の舞台時に完全にクリアすることのできていなかった、普段言い慣れない単語を自然に感情を込めて語ることや、「怒り」の感情表現や声を荒げるシーンも違和感を感じさせることなく演じており、舞台に立つ姿がかなり板についていました。とりわけ先述した父親との口論のシーンなどは、素直に見ている側の心を打つ芝居でしたし、泣きの演技も泣き顔はブサイクでしたが、泣いていてもセリフはしっかりと聞き取れたし、初日はぎこちなかった音楽用語だらけでの場面も、千秋楽には、本当に感情たっぷりに表現できていたし、本当に以前に比べると、最後まで安心してみていられる立派な俳優さんでした。今後の課題として気になった点を挙げるとしたら、「独白」の部分や「1人芝居」の部分でしょうか。相手がいないセリフ、客席に語りかけるようなセリフは、まだ、照れが見えるというか、力みすぎているというか、気負いが感じられるというか、あまり得意でない印象が残ったので。それも初日にくらべると千秋楽の段階では、かなり自然に無理なく言えており、この30公演を経てのさらなる成長を感じました。ちなみに私は、大熱演の相葉さんよりも、感情を抑制しながら静かに燃えているときの相葉さんの芝居のほうが好きです。感情を抑制しながら穏やかに静かに燃えているときの相葉さんの表情や言葉は、心にグっとくるものがありました。

そして今回、改めて感じたのは、以前も語った相葉さん特有の「何を演じていても相葉君本人が透けて見える」効果っていうのは、相葉さんの弱点だと思われがちだったけれど、案外、これは相葉さんならではの強みでもあるんだなということ。相葉さんの小細工なしの真摯で真っ直ぐな独特の一生懸命さは、どの役を演じていても全身から滲み出ていて、それは決して見る側にマイナスなものではなく、ヲタクの色眼鏡を外しても、一般的に心を打つものに思えたので。 今回の場合、舞台上でピアノの才能という壁にぶち当たってもがき苦しみながら一生懸命自分の道を探そうとしている春也君は、そのまんま、表現することを模索してもがき苦しみながらも舞台演劇にしがみついている相葉雅紀さん本人と重なり、その一生懸命もがきくるしみながら体当たりで役と向き合っている真摯な姿、少しずつではあれど答えを掴んでいって自信を身につけて上達している様子、それらの目に見える小さな成長は、今までの相葉さんの演技仕事を見守ってきたファンにとっては、ただただ涙腺を刺激するものでした。小手先の技術なんて何も持ち合わせていないけれど、ただただハートでぶつかっていく、心を役柄に近づけて行く、それだけのシンプルなスタイルで勝負しつづけていく姿、そしてそんな方法で築き上げてきた相葉さんの役者としてのキャリアの中で、その透けて見える相葉雅紀本人の度合いが今回どんどん薄まっていることに気づかされると、そこにたどり着くまでの努力を感じて、胸がいっぱいになってしまいました。

その他のキャストの方々についてですが、初舞台だという上原美佐さんは、立ち姿も美しいし、声も通るし、春也君に大きな影響を与える存在である恋人みっちゃんを好演しておられたと思います。春也君とみっちゃんが惹かれあっていく様子や、お互いがお互いを愛おしく思う空気は、時間の経過、公演回数の経過と共に自然さがどんどん増してきた印象を受けました。二人が会話するシーンは本当に微笑ましく、可愛らしく、そして心底羨ましかったです。(笑)  あと妹役の保可南さんも、やはり演劇畑の人は流石だなと思わせてくれる演技力で素晴しかったし、お父さん役の田山涼成さんは、頑固オヤジの下駄職人がハマっておられ、男泣きの芝居もグっとくるものがありました。藤田朋子さんに至っては、そんなにセリフが多いわけではないし登場場面が多いわけでもないのだけれど、声がひじょうによく通り、発する一言一言の説得力が素晴しく、さすがの演技力で圧巻でした。病院の先生の相島さんが醸し出す独特の穏やかさや落ち着きも貫禄があってステキでしたし、道化役のような役どころの幼なじみ役の方々は、若干煩く感じる部分もなきにしもあらずでしたが、あの辛気臭い内容に笑いを加えて、全体の空気を明るくする大きな役割を担ってくれており、とりわけ日替わりのアドリブトークがとても面白かったです。

私が今回一番好きな相葉さん(というか春也君)の表情は、みっちゃんと三途の川で別れる直前に、やりたいことや夢をドンドン語りはじめる場面。このシーン自体が好きなわけではないのですが、この夢を語り始めるシーンを演じているときの相葉さんがとても好きでした。 みっちゃんを一人で逝かせて自分だけ現世に戻るのは「いやだ、いやだ」と泣き崩れ、「僕は、なにをしてあげればいい?キミには、いつもしてもらうばっかりで・・・。」と泣きながらぐしゃぐしゃの顔で尋ね、「私を安心させて!」と言われてから、現世に戻る決意をし、それをみっちゃんに伝えて、これからの自分の夢を語りだすあたりの笑顔。悲しみと罪悪感のどん底から気持ちが切り替わって、この晴れやかな笑顔に変わるまでの一連の表情の変化、夢をかたりはじめていくうちに笑顔が輝きはじめる。このじわじわと笑顔を取り戻して行く表情の変化、そしてすべてを悟った顔で階段を降りてくる姿を眺めるのが大好きでした。この笑顔が見れただけでも、この笑顔や表情を引き出せるようになるまでの努力、お稽古の成果を、この目で感じられたことが幸せでした。というわけで、作品(脚本)には不満も多々あれど、結局のところ、私は一生懸命頑張っている相葉さんを眺めているだけで感動できる体質なんだなと、じぶんの『あいばか』っぷりを改めて悟り、まんまと製作者の意図にハマっているヲタクな自分を再確認した舞台でした。 でも、もし次にあるとしたら(もう本当に当分なくていいけれど)、作品単体としても満足できる完成度の高い脚本で頑張る相葉さんが見たいです。(苦笑)

| 観劇・狂言・落語 | 19:31 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑

COMMENT

JOLLYさん、こんにちは。
そして舞台レビューありがとうございます。

私は抽選も当日券の電話にも敗れて舞台は見れませんでした。
観劇した方々のレポを読んでストーリーがわかりましたが、JOLLYさんの図付きのレビューで舞台上の位置でも『生・幽体・死』が表されてたことを知り、また一つ知識が増えました♪

舞台が終わって、次に相葉さん・嵐5人に会える事務所からの発表はいつなんでしょうね?
まずはギャラクシー2のCM捕獲に励みます。
そういえばニンテンドーチャンネルに『走り幅跳び篇』が増えました。
そのうちHPにもアップされてテレビでも流れるのでしょうか?
JOLLYさんのHDDもまだまだ休めませんね!

| なゆこ | 2010/05/26 16:01 | URL |

>なゆこさん

こんにちは。
そしてコメントありがとうございます。
舞台は残念でしたね。
ただ、今回、カメラが入っていた日もあるらしいので、
それが単なる記録用ではなく、今回御覧になれなかった人のためにも、
商品化されるといいんですけどね。

マリオ、また増えましたね。
この捕獲作業から、本当に早く開放されたいです。(苦笑)

| JOLLY → なゆこさん | 2010/05/30 21:18 | URL |















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